日本ではバッタ科のバッタによる蝗害がほとんど起こらなかったため、中国渡来の文献に書かれている「蝗害」を、昆虫による大規模な農被害全般を指す語だと誤解した。日本の古文献に書かれている「蝗害」のほとんどは、イナゴ(イナゴ科)、ウンカ、メイチュウによるものである。被害の様相はバッタによる真の蝗害とは著しく異なるが、やはり真の蝗害の実体験に乏しい日本では、このウンカによる被害に対しても、蝗害の漢語が当てられることとなった。今日ではウンカも群生相を示すことが知られているが、被害は飛蝗に比べればはるかに小さい。
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日本で越冬できないトビイロウンカやセジロウンカの被害が発生するのは、梅雨前線に沿った気流によって中国南部(東南アジア説もある)から移動してきて一時的に大発生するためである。このトビイロウンカやセジロウンカは昭和前期には越冬していると考えられていたのであるが、昭和42年(1967年)に、岸本良一がジェット気流に乗って梅雨の時期に中国大陸から飛来するとする研究を発表し、昭和62年(1987年)に清野豁が飛来経路を解明した。このため、現在では飛来型ウンカには飛来予報を発表するページが存在する。
古文献には、『続日本紀』巻二大宝元年(701年)八月辛酉の条に、三河を始めとする17ヶ国に蝗の被害があったと記されており、以後数年おきに害が報告されている[36]。また、『続日本記』には天平勝宝元年(749年)に「下総に蝗害・石見に疾疫あり。よって夫々に賑給す」と関東地方でも蝗害があったとする記述がある。この後の『日本後紀』巻22、弘仁3年(812年)の条にも、薩摩国で蝗が発生し、稻五千束の税が免除されたとの記録があるが[37]、これはウンカによる被害と見られる。
神話・伝説のレベルの話だが、807年に成立した『古語拾遺』には、大地主神(おおところぬしのかみ)が御年神(みとしのかみ)から蝗害防止の祭事を教わった話が載る。桑原和男は『古語拾遺』804年の条から銅鐸にある絵柄の一つは蝗害防止の祭事ではないかと仮説を立てている。
874年には伊勢国で「其頭赤如丹。背青黒。腹斑駮。大者一寸五分。小者一寸」と描写される「蝗」に1日数ヘクタールが食害されており(日本三代実録)、これはイナゴの被害と見られている。また、寛仁1年(1017年)には越前・摂津・近江など蝗害のため、蝗虫御祈諸社奉幣使を使わした記録がある(『小右記』)。
享保年間、特に享保17年(1732年)前後に起きた蝗害が大きい。防長両国の蝗害高は29万2740石余、松江藩では収穫は7割程落ち込んだとされ、伊予和気郡松山藩では3400人の死者が出たとされる。なお、『徳川実紀』にはこの蝗害のために餓死した人間を96万9900人と書き記しており、46藩合計で236万石の所、収穫は62万8000余石足らずであったと言う。
また厳島神社には寛延3年(1750年)、同8年(1753年)に蝗害発生による祈祷を行った記録が残っているほか、寛延2年(1749年)には冷害と蝗害により東北地方が大飢饉となり、肥前唐津藩では明和4年(1768年)に蝗害が起きた記録が、元文5年(1740年)には伊勢国紀州藩領で108村が蝗害のための減免を強訴した記録があり、明和7年(1770年)に関東各地で、安永9年(1780年)に出雲松江藩で蝗害の記録が、文政2年(1819年)11月には大里郡佐谷田村(現埼玉県)にて蝗害駆除の祈願が行われた旨がそれぞれの町史や市史、県史に見る事ができる。大蔵永常の1826年の農業書である『除蝗録』はウンカについての記述と見られる。なお、記録が多い筑紫国の蝗害は、寛永4年(1627年)から慶応4年(1868年)の間に33回も蝗害の記述がある。